ミライのつくり方 2020-2045 僕がVRに賭けるわけ を読んだ

ミライのつくり方 2020-2045 僕がVRに賭けるわけ を読んだ。

前半のOculusに押し掛け入社して退社するまでのところはとても面白い。
ただ、そこまでVRに入れ込んで「VRに賭ける」理由というか、GOROman氏が思い描くVRの未来についてはあまり真面目に書かれていないと感じた。

自分の場合、賭けるというほどまでVRに入れ込んではいないのだけど、QuickTime VRの全天周の映像というのが出ていたのを見て、これをもっと没入感が高い大画面の全天周ディスプレイみたいなもので見たいと思っていた。
昔の香港の全天周パノラマ映像VRツアーのソフトを買ったのだった
遠くの場所や時代に行ったような仮想体験ができるVRの一種だ。

そのコンセプトの原型はどこにあるのかというと、かなり昔からプラネタリウムという任意の場所と時間の空を体験できるという形でそれなりに普及しているし、「キモズム」を余裕で越えていると思う。

あと、昔ザウルスというPDAの先祖の携帯機器に入れ込んでいた時期があって、Niftyのフォーラムのオフ会(?)でシャープの会社見学に行ったときに、ドーナツ型の小型映画館みたいな映像デモ装置を体験した。レオナルドダビンチを題材にした全天周のショート映画の映像デモだったと思う。あまり詳しく覚えていないのだが一味足りないというか惜しいと思ったような記憶がある。

そもそもテレビジョンTele-vision(TV)というのが昔発明されて以来、遠く離れた場所の映像を疑似体験するということはもう当たり前のように普及してしまっている。そして、映画というのも映像を記録しその映像を追体験する装置として普及し、3D映画も徐々に定着しつつある。(3Dテレビは普及しなかったが)
Visionを遠隔(tele)で体験するというのは、当然VRだ。遠隔体験Tele-Experienceと言ってもいいのだろう。
究極のゴールはスタートレックTNGとかに出てくる「ホロデッキ」だろう。

エンターティンメントとして普及の間口が徐々に広がっていくという形でしかVRは普及しないのではないかと思う。ゴールとしてホロデッキは遠すぎる。

とりあえず、テレビはエンターティンメント機器というのを越えてある意味で社会のインフラの1つになっている。(自分はテレビを捨ててしまっているが)
割と軽量なメガネを掛けるというレベルで装着できるようになれば、AR家具として映像スクリーンを壁面や空間に登場させることができ、据え置きのテレビは必要なくなるというステップがくるのかもしれない。
そして、視界全部を映像が奪ってしまう「全画面モード」みたいな感じでVRコンテンツや3D映画を楽しむという形になり、統合し合流されるのだと思う。

では、VRで社会が大きく変わるかというと、既にテレビやネット映像(YouTube)で十分に大きく変わってしまったとも言えるし、まだ変えられてない部分はVRのエンターテインメントを梃子にして少しずつ広がっていくのかなと思う。

余談だが、主観視点でのVRについては、昔、セガがゲームセンターでやっていたゲームでR-360というのがあったが、この方向の延長が普及する未来にも期待していた。結局普及しなかったのは残念だ。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Time limit is exhausted. Please reload CAPTCHA.

× 4 = 12